2010年08月28日

10年前とつながる夜

久しぶりに研究室時代の仲間が集まり3時間ばかり談義。かれこれ10年くらいの付き合いになるというのだが、みんな社会人になって家庭を持って落ち着いてからお付き合いしているせいか、年月の大きな流れを感じさせない(僕の恰幅がよくなってしまったということくらい?)。通常のMBAとは違い、ビジネスマンはかなり少なく、メインは医療系、教員系という研究室なので、なあなあにして話す用語も、突っ込みを入れられたりして、自分自身がしっかりわかっていないと議論できないという、軽い緊張感も心地よいかもしれない。

僕が研究室で論文を書いていた頃は、主に紙メディアの仕事をしており、研究室をでてしばらくしてから思い切ってインターネット企業に転職したのだが、いま思うと、すでに研究会では、Googleの検索理論やネットワーク理論、ソーシャルグラフ理論などを数式から学んでいたのだった。いまでこそ、ソーシャルメディアなどが花盛りだが、すでにあの頃から基礎をやっていたのだ。それを人の成長などに活かすといったことも含めて、活動理論などととつなげていったり‥だいぶ先進的なことをやっていたのだと改めて感じた。

しかし、それを意識して統合し、使えるものにしていくのは、努力も必要だが統合できる「センス」がないとできない。新しい切り口の発見や理論的な基礎については、大学院で学べるが、実際にそれを何らかの目的に合わせて統合的に昇華し、新たな理論を開発したり、あるいは実際の生活やビジネスの場で活かすというのは、なかなか難しいのだ。どうしても、理論重視になってしまったり、現場環境重視になってしまったりして、バランスの取れたアウトプットを出せる人は極端に少ない。

僕にセンスがあるかどうかは別として、改めてここ10年でインプットされた内容を精査して、本当に自分がいま必要なインプットは何か?足りないものは何か?を見極め、新たな知の獲得を急がなければならないのだと感じる。重要なのは、目的である。何のためにやるのかが決まっていないと、空回りする。自分自身や自分の会社のあるべき姿を描けるか、描き続けられるかという点を鮮明に提示することで、理論ははじめて使い物になる。
posted by 4430516 at 14:10| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | いわゆる日記の類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月27日

リーダーとマネジャー

リーダーとマネジャーについて、日経産業に藤田東久生さんが、ごく簡単にまとめられてたのだが、妙な納得感があった。

●リーダー
・企業家
・会社を儲ける
・変化を主導する
・相手が理解するまで繰り返す
・社外と交流する
・会社は倒産するものと心得る

●マネジャー
・中間的な経営層的な経営者
・自分を儲ける
・現状維持(変化を嫌う)
・一度言えばすむと考える
・社内と交流する
・倒産しないだろうと考える

ここまで2極化しなくてもいいのだろうが、どちらかといえば‥という議論には最適な分け方のように感じた。僕はマネジメント層に、この2者が共存できなければいけないと思っている。だから、自分たちの会社も明らかにこの2タイプをマネジメントにした。どちらがトップになるかによって、その会社の個性も変わると思うが、マネジメント型がトップにつく場合は、リーダー型が参謀になるだろうし、逆の場合はマネジメント型が調整役として機能するだろう。

どちらがよいというのではなく、実際にかかわる人たちの個性や状況によって、決められるべきなのだろうが、リーダータイプとマネジャータイプを混同して組織をつくるのは、避けなければならない。また、どちらもマジックワードなので、定義をしなで使うのは危険だ。マネジャーをやっているというと、何かとてつもないリーダーシップを発揮できそうなイメージもあるが、少なくともここに書かれている定義とはちょっと違う。
posted by 4430516 at 09:47| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本とか雑誌とか | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月15日

仕事好きは、マゾなのか?

仕事を詰めて、休みも取らずにやっていると「マゾだよね」と言われる。それだけ仕事をするのは、責められる状況やすべて自分が悪いんだから‥という思考を自ら進んで選び、そこに喜びを感じているのだということかもしれない。

しかし、人をサド・マゾという2極化思考で分類する短絡さだけではなく、仕事そのものと性や病を混在させて議論しようとしていることに疑問を呈する。もう少し状況をみて、分類を試みた方がよいのではないか?

仕事を詰めている状況は、仕事に追われているだけなのかもしれない。とにかく「やれ」といわれて、いたし方なくやっているということもあるだろう。逆に、その仕事に自らの成長価値を見出し、積極的に取り組んでいるのだとしたら?もしくは、生計のためにその時間の使い方も、すべて計算された中でやっているのだとしたら?

誰もが、自らを責めて仕事をしているわけではない。また、責められる状況を楽しんでいるわけではない。どんな状況で仕事をしているのか?もう少し状況に合わせたメガネで、物事をみてみようではないか。

ちなみに、あえてサド・マゾの議論を私に当てはめていうのなら、私は、組織や自分自身が成長すると思う仕事に対しては、自分に対してとてもサドだと思う。ただ、性のサドというものは、相手のことをいたわるものだ。もちろん私自身も可愛い。そして、自らのサド性を受け入れるマゾ性も持ち合わせていると思う。両方のバランスが整わないと思考のタフさは生まれないのではないか?
posted by 4430516 at 21:00| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事の構え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月14日

キレイなパワポ資料はダメなのか?

「キレイなパワポの資料をつくるだけでは‥」とは、いろいろなところで聞く言葉。この後に「何もクライアントの要求を満たせない」「成果を出せない」「無駄にお金を払わせている」‥という言葉が続く。

とはいえ、もう少し正しい言葉を使ったほうがいい。「キレイなパワポ」という言葉を鵜呑みにしてしまうちょっと頭の悪い人たちが、「キレイ」を過大解釈してしまい、キレイなパワポが、あたかも「悪」のように思われてしまう。

正しくは、
●見た感じは目を引くが、現実的実行性が伴わない内容
●見た感じは目を引くが、書いてあることがわかりにくい
●見た感じは目を引くが、目的に対して意味のない
ということを言いたいのだろう。それを「キレイ」の言葉でまとめてしまうから、ややこしくなる。

もっと言えば、こういうことを言う人は、私の経験的には、自分では「見た感じは目を引く」ような資料を作れないので、その部分に負い目を感じているケースが多いように思う。だから、内容が悪いということそのものには、言及せずに「見た目」部分にフォーカスした発言になってしまうのかもしれない。

しかし、同じ内容なら「見た感じ、目を引かせる」資料は、何も問題ない。むしろ、歓迎すべきだ。ただ、目を引くものが作れたとしても、それが、主なターゲットにとって、読みやすいフォントの選択や大きさであったり、意味のある色使いをしていたり、意味のあるレイアウトであったりしなければ、価値はない。

つまり、「見た目はキャッチーな資料だとしても、中身が伴わないとダメだよね」という当たり前のことを言いたいのに、「キレイ」という言葉でひとくくりにしてしまうから、ややこしくなる。単に「中身がない資料はダメだよね」といえばそれで済むはずだ。問題は中身。目的に合致しているのか、実行性があるか、結果が見出せるのか‥など、本来的な価値の部分で勝負すれば良いだけの話しだ。

もちろん「キレイ」で中身が伴うのなら、それが一番だと思う。私は相手の満足度を高め、継続した依頼を得るために、常に見た目も中身も細心の注意を払って提供している。とはいえ、必要のない場合は、手書きでクライアントと議論することも多々あるし、その手書きの資料に相当の費用をいただいている。だから、安易に「キレイな資料をつくるだけ‥」みたいな言葉で、プランナーを批評する人には、疑問を呈したい。
posted by 4430516 at 19:22| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 仕事の構え | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月01日

地方から政治が変わるって、そういうことか。

昨日は、2ヶ月ちょっとぶりに、仕事を考えない日をつくって、久しぶりに丸1日ダラダラ寝ていた。家族もしばらく家に居ないし、誰ともメールや電話のやりとりもせず、ひたすらテレビ。しかし、まあ民放のバラエティのつまらないこと。ドキュメンタリーと報道特集と映画を選んで見ていた。

気になるのは、名古屋市の河村市長と阿久根市の竹原市長の2つの地方自治体の話題である。しばらくネットで簡単なニュースを舐めていただけだったので「河村市長と竹原市長の暴走か?」みたなイメージしかもっていなかったのだが、おふたりとも本質的にはまともな取り組みをしているのではないかと思う。

表向きは、何期も継続してやってきて、既得権にしがみついている市議会議員が、なあなあで市政を決めるよりも、もっと現実に近い民意を反映できる方法があるはずだ。しかも、市議会議員の報酬はそれに見合ったものではない‥ということがクローズアップされているような気がするが、この2人の市長は、私たちは国民とか県民である前に、住民のレベルで自分たちのことは自分たちで決めていくべきだという意識を再確認させようとしているのだと感じた。

現在の国政の混乱も、私たちが「議員を選んだあとはよろしく」とか「お役所がやるからいいや」ということで、他人事として政治を誰かに押し付けていることが根本的な原因ではないか。私たちの仕事にたとえるなら、クライアント企業(住民)とある取引先業者(役所)が懇意すぎる中になり、取引業者からクライアントに賄賂やバックマージン(子供手当てなどのばら撒き)を施され、そのコンプライアンスが麻痺しているというようなものだろう。

民主党などはマニュフェストが守られないとまずいとか(特に小沢さんはそうみたいですが)おっしゃっている。しかし、私たちの本音は、マニュフェストが守られなくてもいい。この累積赤字を何とかして、子供たちが将来も明るく、自信をもって生きていけるような国づくりをしたい、ということを、もはやどうにもならない自民党ではないところに期待したのではないか?子供手当てや高速代無料、消費税はアップなし‥なんて、施策のひとつでしかない。マスコミもそんなことばかり、街のインタビューを拾って編集したがるが、私たちはもっと根本的な議論をしたい。

国民に訴えかける具体策こそが重要というのはわかるが、私たちは、目先の施策ではなく、もっと大局を絵描いた上で、施策に落とし込むという考え方も同時に知りたい。それをつくり、提示していくのが、国家戦略室の役割だと思っていたが、「戦略室」も、どこかの企業のような形骸化したものというイメージがある。

私たちは、もはや受身であってはならない。住民レベルで政治に積極的に取り組みをするという意識を全国的にもたなければ、この国は平和病にうつつをつかしているうちに、いつの間にか中国などの企業に買われ、朽ちてしまうのではないか。だから、国会議員に「国を良くしてください」とか「期待している」ということは言わず、もっと自らに関わりあるという意識で、しっかり政治に向かいあう必要がある。まず、身近でわかりやすい市政レベルからの参加が重要なのだろう。

私の住んでいる区でも、名古屋市のような試みがあれば、ぜひ参加したいと思った。
posted by 4430516 at 15:48| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | いわゆる日記の類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
blogram投票ボタン