2010年09月19日

変わるもの、変わらないもの

中学校の運動会。子供が走っていて、私たち保護者が周りで見ているという構図は、幼稚園の頃と変わらないのだが、見る対象がこれだけデカくなると、昔のかわいらしかった子供を懐かしんでしまう。中学3年生が集団で走っている姿をみたら、もうオッサンが走っているのとなんら変わりがないもの。見に来ているお母さん方も、だいぶ肉付きがよくなったなぁとか、白髪が目立つなぁ‥などと、嘆いていたら「あんたも同じよ」とかみさんに諭された。

子供たちが走っている姿を見れば、自分の中学時代と重ね合わせてみることもできるので、そういう意味では、20数年前と対して変わりはないのかもしれないが、教師や子供の内情は少し変わってきているという話も聞く。

例えば、いわゆる「不良」は、私たちのころは横浜銀蠅とかなめ猫的なキャラクターを好み、スカートがやたらと長いか短いかどちらかだったが、最近はそういったファッションで何かの差異でわかるものではない。犯罪を犯す子供たちも、見た目は普通という。

教師については、始業式に「先生に何か言いたいことがあれば、子供たちから直接言わずに、親が学校に言ってください。先生をいじめないで」ということを、教師たちが訴えていたようで、これも、どうよという感じではあるが‥

とはいえ、私たちの中学生の頃でも、万引きや暴力沙汰、かなり年上の人との恋愛の末に妊娠とか‥いたって普通の子供たちが問題を引き起こしていたし、教師の暴力は日常茶飯で、コネクション採用や授業のできないいい加減教師もいたわけで、まぁ、そのあたりもたいして変わっていないのかもしれない。戦火を潜りぬけてきた自分たちの親世代とは違い、しばらく平和が続いているせいか、ある意味デジャヴュをみているのかとも思う。

やはり、年だけとったのかな。
posted by 4430516 at 12:06| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | いわゆる日記の類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

政治家はアドバイザーであるべきではないか?

「私を国会で働かせてください!」「みなさまの声を聞き、全身全霊でがんばってまいります!」みたいなことを、政治家は言ってきたし、それはそれでひとつの戦い方なのだろうと、特別に疑問も抱いていなかったが、議員は果たして「国民全体の代表」なのだろうか?そのような定義自体が、昨今の政治の行き詰まりの原因ではないだろうか。

実際、公示されて2週間くらいで、立候補した人の素性すらわからないまま、投票日直前に選挙カーで名前連呼されて、「こんな人もいたんだ」くらいにしか思わない人に投票するしかなかったのではないか。いや、よくわからないから顔で選ぶか、元大臣とか、TVでなじみのある顔、世襲議員を選ばざるを得なかったのではないか?

そんな人が私の代わりになれるのだろうかと問う前に、そもそも私たちの代表が議員とする考え方に無理があるのかもしれない。議員は私たちの代表ではなく、私たちのアドバイザーだと仮定してみるのはどうだろう。あくまでも主権は私たちにあり、議員は私たちの実現したいことを聞き出し、問題を把握、課題を設定して、いくつかの方向性(コンセプト)なりビックピクチャーを描きつつ、それをプランナーたち(官僚や民間を問わず)に考えさせ、リスクヘッジを私たちに提示しながら(情報開示)、最適だと思うものを選ぶというのが、本来の姿ではないかと考えてみる。

いまの「脱官僚」の議論を聞いてると、どうも政治家たちが自分で何かプランを考えようとしている節もみうけられるが、基本的にはプランナーは外部を使えばよい。自らは、私たちが投資するお金(税金)をつかって、どのように問題(未来的なものももちろん含む)を解決できるのかを考えるところに注力して欲しいものだ。我々の業界で言えば「アカウントプランナー」と「プロデューサー」の両方の役割をもった人に当たるだろう。職業議員であれば、私たちの代表ということよりも、むしろそういったプロフェッショナルという視点で議論をする姿勢をみせて欲しいところだ。
posted by 4430516 at 07:17| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | いわゆる日記の類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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